大名の庭園
  大名庭園はここに挙げた小石川後楽園、六義園、浜離宮の他に、岡山後楽園(おかやま)、栗林公園(高松)、天赦園(宇和島)、養浩館(福井)、兼六公園(金沢)、玄宮園(彦根)がある。特徴は@概して広大な敷地。Aテーマは子孫繁栄を願って陰陽和合が多い。B小石川後楽園の影響もあってか儒教的な故事に倣った部位も多い。C時代も安定しているため生産力が向上し、権力が集中しているため、より大きな石、より奇岩を求めている。Dかつてのような宗教の信仰に根ざした内容は希薄になっている。

小石川後楽園
沿革
1629年徳川御三家・水戸藩の初代頼房が三代将軍家光よりこの地を与えられ、江戸上屋敷とし、本邸と共に庭園も着工した。2代光圀も父の未完成部分を完成させた。このとき光圀は明から招いた儒学者・朱舜水の意見を聞き中国風の庭園にした。「後楽園」という名称も朱舜水が「士は天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽に後れて楽しむ」を范仲淹(はんちゅうえん)の「岳陽楼記」から名づけた。
庭園の特徴
@構成は伝統的A名所写しB中国庭園様式が入っているC富士山形の大築山がある
庭園の内容
@鶴亀蓬莱、特に徳大寺石は目を引き、この石を中心として全体が構成されているA長寿延年B広大な敷地(70,847u)に巨大な石

▲後楽園・通天橋と豪華な山畔石組み   江戸の大名屋敷はこのように起伏のある地形を利用

六義園 中島にある妹山・背山と陰陽石
沿革
  1695年川越城主の柳沢吉保が五代将軍綱吉の御側用人になり権力の絶頂にあった時期に作られた。
そのため、各大名が密かに巨石、奇岩を運び込んだ。87,809uという広大な場所に全国の和歌にちなんだ景勝地88箇所が再現された。明治時代には三菱の創業者岩崎弥太郎の別邸になり、昭和13年に東京都に寄贈された。
庭園
  大名庭園の代表との言うべき庭。平安、鎌倉、室町時代の天皇、将軍、戦国武将に比べると圧倒的な広さである。江戸時代の重臣はかくも権力を持つのだろうか。しかしこの庭にはテーマがあり珍しい庭だ。全国のあらゆる名所を取り込んだ公園とも言うべき庭。広い敷地に鬱蒼とした林があり散策には適している。なお、江戸には大名屋敷が何千とあり江戸の面積の60%も占めていた。そのため他の都市に比べ公園などが大変多い。

▲六義園  この庭で最も中心になる蓬莱島の洞窟(陰石)

浜離宮

沿革

 1654年四代将軍家綱の弟の松平綱重(甲府宰相)が甲府屋敷と呼ばれた別邸を建て、将軍家の鷹狩の場とした。その後綱重の子、綱豊が六代将軍になったのを契機にこの屋敷は将軍家のものになり「浜御殿」と改められた。その後歴代将軍によって幾度かの造園、改修があったが、11代将軍家斉の時代にほぼ現在の状態になった。明治維新後は皇室の離宮になり「浜離宮」と改称した。明治12年には明治天皇と前アメリカ大統領のグラント将軍の会談も行われた。戦後皇室から東京都に下賜され一般公開されるようになった。
庭園構成
  海水を引き入れた汐入の池とふたつの鴨場を持つ江戸時代の庭である。南と西が海で、東が築地川という水に囲まれた景色である。園内には大きな木が茂り鴨場の雰囲気だ。鴨場は庚申堂鴨場が1778年、新銭座鴨場が1791年に作られた。鴨場の池には幾筋かの引堀(細い堀)を設け、小のぞきから鴨の様子を伺いながら、稗、粟などの餌とおとりのアヒルで引堀におびき寄せ、機を見て土手の陰から網ですくい取るという猟を行っていた。

▲護岸岩組み  この庭園で最も堅固に組まれている岩組み

玄宮園   蓬莱島の鶴鳴渚といわれる中央の石組み。
  なんといっても気になるのが鶴が天に向かって一声あげたときの姿だ。ここの石組みはどの角度からも堪能できる。

楽々園   深山幽谷の渓流はやがて激流になり滝からほとばしり落ちる。将に水墨画の世界
   総合TOP  ヨーロッパ紀行TOP 日本庭園TOP