宮廷・離宮の庭 |
京都御所(御池庭・御内庭) この場所に御所が定着したのは織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のよって。1606年小堀遠州により現在の庭園の基礎が作られたが、1676年の改修により現在の形になった。 御池庭は穏やかな雰囲気が漂っていて心和む庭だ。今回、秋の一般公開で拝観したが、改めて王朝文化の品のよさを感じることが出来た。 奥にある御内庭は森と鑓水に満たされている。天皇が個人的に心を和ませた場所であろう。 |
▲御池庭の蓬莱島と欅橋 |
▲御内庭の土橋 土橋は紅葉とあいまって柔らかな雰囲気だ |
仙洞御所 江戸時代 池泉回遊式 1629年に後永尾(ごみずのお)天皇が突然退位した。当初急ごしらえの二条城へ移られたが、その翌年仙洞御所が完成し移られた。1633年から小堀遠州などにより庭が作られた。しかしその後7回の火事にあった。庭園が今日のようになったのは1744年からの改造によってである。 当庭園は武将の庭のようなゴリゴリした景観がなく、大名庭園や、今日の公園のようである。私は御所なので王朝絵巻にある寝殿造り風かな、と考えていた。その原因は私の素人考えであるが次のようなことであろうか。@宮家の庭園なので禅寺や武将の庭のような緊迫感が必要なく、ゆったりして和やかである。A王朝文化の伝統を保持した芸術家がいない。B財政的ゆとりがない。C江戸時代の気風が創作性を失わせている。 |
▲出島の雄滝付近の豪華な石組み |
▲広大な石浜を作るにあたって、京都所司代であった小田原藩主大久保忠真が寄進した。この石は 「一升石」と呼ばれるのは、米一升と石一個と交換したから。色、形、大きさが吟味されている。 |
桂離宮 庭園の沿革 造園に関わった人々 @初代:八条宮智仁(としひと)親王は秀吉の養子になったが、実子が出来たので縁組が解消され、八条宮を創設した。そのご兄の後陽成天皇が弟の八条宮に譲位をしようとしたが、家康の反対にあって頓挫した。智仁親王は漢学、和歌に造詣が深かったが、1615年所領が桂に変更されたのを機に、藤原道長ゆかりの山荘の再興に着手した。古書院、御茶屋は出来たが、1629年に突然の死で工事は中断された A二代:八条宮智忠(としただ)親王は前田利常の娘富姫(ふうひめ)との結婚で財政的な基盤が出来たため、1641年から再び工痔が始まった。中書院、賞花亭、笑意軒、園林堂、そと腰掛などを作った。親王は後水尾上皇の御幸に備えて、御幸門、御幸道を新設し、「月の桂」に因んで欄間、襖の引き手には月の衣装を凝らした。 B後水尾上皇:修学院離宮を造営中の彼は、既にお忍びで山荘を訪れていた。今回正式に訪問を予定していたが、1661年の内裏も焼けた大火で実現しなかった。上皇の正式な訪問が実現したのは、大火の2年後の1663年である。三代目の穏仁(やすひと)親王のとき。 ▲突然視界が開け州浜、天橋立、松琴亭、白川橋が望める |
修学院離宮 |
▲円通寺 比叡山遠望 聳える檜と杉の木立。その間から垣間見える霊峰比叡山。生垣の手前には控えめの枯山水。 木立は部屋の柱とマッチしてうるさく感じられない。木立の上部は枝が茂っていて空を覆っている、自然に下枝を払った空間の比叡山に視線が向かう。人工的な生垣の濃い緑が画面を引き締める。 |
▲枳殻邸(渉成園) 当庭園は真宗大谷派の本山の飛地境内地に在る庭園なので「宮廷・離宮の庭」ではないが、内容的に類似性があるので当分類に入れた。 |
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