パウロ宣教の地を訪ねて(トルコ〜ギリシャ編) | ||||||||||||||||
なぜパウロの足跡を尋ねるか イエスはユダヤ教の形式的な律法では人々は救えないと考えていた。しかし完全にユダヤ教を脱却していたわけではなかった。そこへユダヤ教とギリシャの教養を持ち合わせたパウロが輩出されたことにより、はじめて世界宗教になったと考える。聖書は主として福音書とパウロの日記とも言える『使徒言行録』そしてパウロの手紙からなっている。福音書は物語的に記されているため、やや装飾的な嫌いがある。一方手紙や使徒言行録は事実のメモが多いのでキリスト教を理解しやすいのではないかと考えた。 イエス焚刑の後12人の使徒やパウロそしてクムラン洞窟にいたエッセネ派(バプテスマヨハネの出身と言われている)など、初期キリスト教に影響を与えた集団についての手がかりから、揺籃期のキリスト教について考えたい。特にパウロは多くの手紙を残しているので情報が多い。トルコ、ギリシャの旅をすることで、パウロが宣教した地のほとんどが含まれる。よって我々は現地に赴いて聖書について考えてみた。 パウロは三回の宣教の旅を行っている。初めはユダヤ人、次は離散ユダヤ人を中心にイエスの福音を説いた。しかし、ほとんどの街で支持を得ることが出来なかった。それよりも異邦人のギリシャ人のほうが遥かに信者を得ることが出来た。 このことはイエス教が世界宗教であるキリスト教になった原点である。初代教会長は守旧派ヤコブ(イエスの兄弟)の思想ではとうの昔に歴史のかなたに消えていたと言われている。一方ペテロに代表される中間派も初めはユダヤ人を対象に宣教していたが、異邦人の方がイエスの福音を信仰する事が解ってくると広くローマ帝国で宣教を始めたようである。パウロの手紙では、あちこちでパウロの教義と違った内容が宣教されていることに義憤していることが垣間見える。しかし、このあたりに関しては、聖書は歴史上の勝者が記した内容なので、ペテロが等が中心になって記されているが、歴史の真実を知るのには、やはり唯一の手がかりであるパウロの手紙から推察することにした。 パウロ宣教の旅
聖書の記載について 以前は文語体で見聞きしていたが最近は新共同訳が共通の聖書になっているようなのでそれを記載した。出典はインターネットの「eBible」による。実に便利です。作者に感謝。なお、聖書引用文でゴシック体は小職が行った。 |
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@ダマスコス |
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Aトロアス トロイの南約25kmにある小さな漁港トロアスからパウロたちはヨーロッパへ旅たちました(単なる通過点)。なお日本人はトロイはシュリーマンによるロマンの世界を想像しがちですが、意外と小さくて驚いたりがっかりしたりです。またシュリーマンの子供の頃の逸話も親を喜ばせるための芝居であったとか、金銀財宝を盗掘しただけで考古学的発掘をしていない、などの興ざめな話しもあります。盗掘について言えば大英博物館、ルーブル博物館、ベルリン博物館など全てといっていいくらい勝手に持っていったものだ。ユネスコの世界遺産で保存すべきものを指定するのも良いが本物は現地の博物館に返却する活動もしてほしいものだ。 使徒言行録 マケドニア人の幻 16:6 (第二回宣教の旅) さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。 ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。 それで、ミシア地方を通ってトロアスに下った。その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。 ▲トロイのオデオン |
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Bカヴァーラ(ローマ時代はネアポリスと言われていた) この街はローマからコンスタンチノーブルへ通じるエグナテリア街道の中間にあり、さらにアジア地区からヨーロッパへ通じる港でもある。パウロは当然トロアスからこのネアポリス(現カヴァーラ)に着いた。海岸付近にそれを記念したアギオス・ニコラス教会がある。 私はこの街で小さな偶然に出会った。この小さな港町の海岸に面したホテルに泊まったが、夜景を撮影すべくベランダから約10秒間のシャッタースピードで撮影した。帰国後写真を見るとなんとベストポジションに流星が写っていた。何か因縁めいた感じになった。パウロがヨーロッパに福音をもたらした第一歩の地だから。 蛇足ながら記すと海岸に面したシーフードレストランで夕食をとったがなんと旨い魚料理ではないか。魚の煮付けは日本が一番と思っていたが、とんでもない思い込みであった。イサキのような魚の塩焼き、蛸の煮付けなど。もちろん白ワインと。翌朝海岸では漁から帰ってきた船から魚を荷揚げしていて日本の漁村を思い起こさせてくれた。朝食後入り組んだ丘をキョロキョロ上っていたら窓から婦人が顔を出して声を掛け、小道の案内をしてくれた。人情が生きている。 使徒言行録 16:11〜15 フィリピにて わたしたちはトロアスから船出してサモトラケ島に直航し、翌日ネアポリス(現在のカヴァーラ)の港に着き、 ▲カヴァーラに降る流れ星はパウロ宣教の印か |
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▲アギオス・ニコラス教会 ▲漁の後の一服 |
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Cフィリピ ヨーロッパで始めての宣教は記念すべきことが多かった。先ずは紫の布を商うリディアが信者になり、パウロはヨーロッパで始めての洗礼を施した。彼女はパウロの宣教を助け自宅を開放し、彼女の家はいわゆる「家庭教会」になった。パウロはユダヤ人を改心させるより信仰の篤い異邦人の方が実りが多いことに気が付き、益々異邦人への宣教に熱が入ったのではないだろうか。 次に有名なエピソードになった物語である。すなわちパウロは女占い師を排除したところ、彼女の占いで収入を得ていた主人から風紀紊乱の罪で訴えられ牢屋に入れられてしまった。ところが地震が発生したため囚人たちが全員逃亡した、と早合点して自殺しようとした看守をパウロは押しとどめ自分はローマの市民権があり何の罪も犯していないから逃亡する必要がないと説明した。これを契機として看守一家が信者になった。このエピソードが語っていることはパウロがローマの市民権を有していることが宣教に大いに役立ったことだ。手紙で知れることは初めは辱めにあったりで苦労したがフィリピの信仰の篤い人々のお陰で以後の宣教がしやすくなった。パウロは逆境の中でパウロを信じてくれた人々に感謝をし、いとおしんでいる。有名な詩篇(離散ユダヤ人が故郷を思って歌った)を参考までに記載したがガンギス川での初めての洗礼でパウロは何を思ったであろうか。 使徒言行録 16:11〜15 フィリピにて わたしたちはトロアスから船出してサモトラケ島に直航し、翌日ネアポリスの港に着き、そこから、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピに行った。そして、この町に数日間滞在した。安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。そして、わたしたちもそこに座って、集まっていた婦人たちに話をした。ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。そして、彼女も家族の者も洗礼を受けたが、そのとき、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってわたしたちを招待し、無理に承知させた。 使徒 16.16〜40 パウロたち投獄される わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。彼女は、パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。そして、二人を高官たちに引き渡してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」群衆も一緒になって二人を責め立てたので、高官たちは二人の衣服をはぎ取り、「鞭で打て」と命じた。そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。 目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」 そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。朝になると、高官たちは下役たちを差し向けて、「あの者どもを釈放せよ」と言わせた。それで、看守はパウロにこの言葉を伝えた。「高官たちが、あなたがたを釈放するようにと、言ってよこしました。さあ、牢から出て、安心して行きなさい。」ところが、パウロは下役たちに言った。「高官たちは、ローマ帝国の市民権を持つわたしたちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ってから投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか。いや、それはいけない。高官たちが自分でここへ来て、わたしたちを連れ出すべきだ。」下役たちは、この言葉を高官たちに報告した。高官たちは、二人がローマ帝国の市民権を持つ者であると聞いて恐れ、出向いて来てわびを言い、二人を牢から連れ出し、町から出て行くように頼んだ。牢を出た二人は、リディアの家に行って兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出発した。 テサロニケの信徒への手紙 T 2:2 無駄ではなかったどころか、知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした。 フィリピの信徒への手紙 4.15〜16 フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。 また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。 詩篇 137:1〜9 バビロンの流れのほとりに座り/シオンを思って、わたしたちは泣いた。 竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。 わたしたちを捕囚にした民が/歌をうたえと言うから/わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして/「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。 どうして歌うことができようか/主のための歌を、異教の地で。 エルサレムよ/もしも、わたしがあなたを忘れるなら/わたしの右手はなえるがよい。 わたしの舌は上顎にはり付くがよい/もしも、あなたを思わぬときがあるなら/もしも、エルサレムを/わたしの最大の喜びとしないなら。 主よ、覚えていてください/エドムの子らを/エルサレムのあの日を/彼らがこう言ったのを/「裸にせよ、裸にせよ、この都の基まで。」 娘バビロンよ、破壊者よ/いかに幸いなことか/お前がわたしたちにした仕打ちを/お前に仕返す者 お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は。 ▲ガンギス川でリディアの洗礼をする ▲パウロが入っていた、と言われる牢 |
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Dテッサロニ テッサロニケは一般的には日本人はあまり行かないが、ここはアレキサンダー大王を生んだマケドニア王国の中心地だ。テッサロニキにはローマ時代の遺跡やビザンチン時代のギリシャ正教の教会がいくつもあリ世界遺産の宝庫だ。 さらにテッサロニキ西へ約40分行ったところにはマケドニアの首都ペラが、さらにその先には王家の墳墓群ヴェルギナがある。 そもそもマケドニア王国は紀元前700に興った小国であった。アレキサンダー大王の父親であるフィリポスU世はギリシャをも統一する大国にした。ギリシャ地図を見るとすぐお解かりのように南部は岩ばかりの土地のため小さなポリスが群雄割拠しているだけである。ここマケドニアは沃野が広がっており統一王国が出来る予感がある。そこへ持ってきて新たに支配下に置いたフィリピのバンゲウス山から金が産出するに及んで、ギリシャを統一しさらにペルシャをも制覇することになった。 フィリピU世の跡を継いだアレキサンダー大王は11年による東方遠征をしギリシャの文化と東洋の文化を融合したヘレニズム時代の基礎を作った。彼の早すぎる死後約40年にわたる将軍たちの後継者争いの後、マケドニア(アンティゴノス朝)、エジプト(プトレマイオス朝)、シリア(セレウコス朝)に分裂した。マケドニアを制したカッサンドロスは前315年大王の異母妹テッサロニケを妻とし、この街をテッサロニケとした。 テッサロニケではユダヤ人による反発が強く殺されそうになるが、ヤソンなどの熱心な信者に助けられベレア(現ヴェリア)に逃げた。パウロは手紙の中で自分たちを命がけで逃がしてくれた信者に感謝している。 使徒言行録 17:1〜10 パウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに着いた。ここにはユダヤ人の会堂があった。パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」と、また、「このメシアはわたしが伝えているイエスである」と説明し、論証した。それで、彼らのうちのある者は信じて、パウロとシラスに従った。神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った。 しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人を民衆の前に引き出そうとして捜した。しかし、二人が見つからなかったので、ヤソンと数人の兄弟を町の当局者たちのところへ引き立てて行って、大声で言った。「世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。ヤソンは彼らをかくまっているのです。彼らは皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています。」これを聞いた群衆と町の当局者たちは動揺した。当局者たちは、ヤソンやほかの者たちから保証金を取ったうえで彼らを釈放した。兄弟たちは、直ちに夜のうちにパウロとシラスをベレアへ送り出した。二人はそこへ到着すると、ユダヤ人の会堂に入った。 1テサロニケ信徒への手紙 2:7〜8 わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、 わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。 ▲ガレリウスの凱旋門 ▲ロトンダ(ガレリウスの霊廟)、400年頃から教会に |
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Eヴェリア この辺からパウロの考えていたルートから外れたのではないか。実際のパウロはアテネに行っているが本来はローマに行きたかったのではないか。そのためにエグナティア街道でデュルラキュウムへ行き。そこから船でアドリア海を渡りローマに行く。しかし州都テッサロニケでユダヤ人のものすごい抵抗に遭い、やむなくヴェリアへ逃走した。しかしここでも追っ手が来て殺されそうになり陸路でローマへ行くことが不可能であることを悟る。やむを得ず至近の港(ピゾナと言われている)で船に乗りアテネへ逃げたのではないかと思う。実際パウロは相当悔しかったらしく、下記のローマ信徒への手紙にも書いてある。しかし一般的にはパウロの宣教の旅についての本では、余り触れられていないが、このあたりについてはもっと考察があっての良いのではないかと思う。なぜならば、ローマには既に誰かが行って宣教しており、その後紆余曲折があってペテロがローマ宣教の父になってしまっているが、使徒言行録はパウロに同行したルカが書いているためペテロについての記録が少ない。例えばトロアスの使徒言行録にも在るとおり「ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった」誰かがすでに宣教してそのテルトリーが在ったと考えられる。しかしペテロがローマ宣教の祖は少し腑に落ちない。すなわち根っからの田舎育ちで、骨の髄までユダヤ教がしみこんでいるペテロがギリシャ語を話したりして、異邦人を宣教するのは大変無理があるのではないかと考える。 使徒言行録 17:10〜15 兄弟たちは、直ちに夜のうちにパウロとシラスをベレアへ送り出した。二人はそこへ到着すると、ユダヤ人の会堂に入った。ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。そこで、そのうちの多くの人が信じ、ギリシア人の上流婦人や男たちも少なからず信仰に入った。ところが、テサロニケのユダヤ人たちは、ベレアでもパウロによって神の言葉が宣べ伝えられていることを知ると、そこへも押しかけて来て、群衆を扇動し騒がせた。それで、兄弟たちは直ちにパウロを送り出して、海岸の地方へ行かせたが、シラスとテモテはベレアに残った。パウロに付き添った人々は、彼をアテネまで連れて行った。そしてできるだけ早く来るようにという、シラスとテモテに対するパウロの指示を受けて帰って行った。 ローマの信徒への手紙 15:19〜22 また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。「彼のことを告げられていなかった人々が見、/聞かなかった人々が悟るであろう」と書いてあるとおりです。 ローマ訪問の計画 こういうわけで、あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました。 |
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▲モスクの付近にあるパウロ記念公園 |
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Fアテネ |
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Gコリント
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Hエフェソ |
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