パウロ宣教の地を訪ねて(トルコ〜ギリシャ編)
なぜパウロの足跡を尋ねるか
 イエスはユダヤ教の形式的な律法では人々は救えないと考えていた。しかし完全にユダヤ教を脱却していたわけではなかった。そこへユダヤ教とギリシャの教養を持ち合わせたパウロが輩出されたことにより、はじめて世界宗教になったと考える。聖書は主として福音書とパウロの日記とも言える『使徒言行録』そしてパウロの手紙からなっている。福音書は物語的に記されているため、やや装飾的な嫌いがある。一方手紙や使徒言行録は事実のメモが多いのでキリスト教を理解しやすいのではないかと考えた。
 イエス焚刑の後12人の使徒やパウロそしてクムラン洞窟にいたエッセネ派(バプテスマヨハネの出身と言われている)など、初期キリスト教に影響を与えた集団についての手がかりから、揺籃期のキリスト教について考えたい。特にパウロは多くの手紙を残しているので情報が多い。トルコ、ギリシャの旅をすることで、パウロが宣教した地のほとんどが含まれる。よって我々は現地に赴いて聖書について考えてみた。
 パウロは三回の宣教の旅を行っている。初めはユダヤ人、次は離散ユダヤ人を中心にイエスの福音を説いた。しかし、ほとんどの街で支持を得ることが出来なかった。それよりも異邦人のギリシャ人のほうが遥かに信者を得ることが出来た。
 このことはイエス教が世界宗教であるキリスト教になった原点である。初代教会長は守旧派ヤコブ(イエスの兄弟)の思想ではとうの昔に歴史のかなたに消えていたと言われている。一方ペテロに代表される中間派も初めはユダヤ人を対象に宣教していたが、異邦人の方がイエスの福音を信仰する事が解ってくると広くローマ帝国で宣教を始めたようである。パウロの手紙では、あちこちでパウロの教義と違った内容が宣教されていることに義憤していることが垣間見える。しかし、このあたりに関しては、聖書は歴史上の勝者が記した内容なので、ペテロが等が中心になって記されているが、歴史の真実を知るのには、やはり唯一の手がかりであるパウロの手紙から推察することにした。



 パウロ宣教の旅
回数 時期 主な訪問地
一回目 47〜48年 キプロス島・ガラテヤ・アタリヤ
二回目 50〜52年 トロアス・フィリピ・テサロニケ・ベレヤ・アテネ・コリント・カイザリア
三回目 53〜56年 エペソ・トロアス・フィリピ・テサロニケ・コリント
ローマ送還 59〜60年 ロードス島・クレタ島・マルタ島・シラクサ・ローマで収監

聖書の記載について
以前は文語体で見聞きしていたが最近は新共同訳が共通の聖書になっているようなのでそれを記載した。出典はインターネットの「eBible」による
実に便利です。作者に感謝。なお、聖書引用文でゴシック体は小職が行った。

@ダマスコス
パウロの回心によってキリスト教が始まったともいえるので、私は訪れたことはないが敢て記載したい。但し私はパウロがなぜキリスト教を取り締まる側の人間が宣教する側の人間になったのかは理解できていません。イエスの復活についても理解が出来ていません。今後は「復活」の説がローマ帝国内で受け入れられた背景について考えてみたいと思っています。ここでは有名な回心と目からうろこが落ちた状況について記載しました。中東の情勢が安定したら是非とも訪問したい町です。

使徒言行録
サウロの回心 9:1〜25(使徒22 6〜16,26.12〜18)
さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。 ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け食事をして元気を取り戻した。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。


Aトロアス
トロイの南約25kmにある小さな漁港トロアスからパウロたちはヨーロッパへ旅たちました(単なる通過点)。なお日本人はトロイはシュリーマンによるロマンの世界を想像しがちですが、意外と小さくて驚いたりがっかりしたりです。またシュリーマンの子供の頃の逸話も親を喜ばせるための芝居であったとか、金銀財宝を盗掘しただけで考古学的発掘をしていない、などの興ざめな話しもあります。盗掘について言えば大英博物館、ルーブル博物館、ベルリン博物館など全てといっていいくらい勝手に持っていったものだ。ユネスコの世界遺産で保存すべきものを指定するのも良いが本物は現地の博物館に返却する活動もしてほしいものだ。
使徒言行録 マケドニア人の幻 16:6 (第二回宣教の旅)
さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。 ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。 それで、ミシア地方を通ってトロアスに下った。その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。

▲トロイのオデオン
Bカヴァーラ(ローマ時代はネアポリスと言われていた)
 この街はローマからコンスタンチノーブルへ通じるエグナテリア街道の中間にあり、さらにアジア地区からヨーロッパへ通じる港でもある。パウロは当然トロアスからこのネアポリス(現カヴァーラ)に着いた。海岸付近にそれを記念したアギオス・ニコラス教会がある。 私はこの街で小さな偶然に出会った。この小さな港町の海岸に面したホテルに泊まったが、夜景を撮影すべくベランダから約10秒間のシャッタースピードで撮影した。帰国後写真を見るとなんとベストポジションに流星が写っていた。何か因縁めいた感じになった。パウロがヨーロッパに福音をもたらした第一歩の地だから。
  蛇足ながら記すと海岸に面したシーフードレストランで夕食をとったがなんと旨い魚料理ではないか。魚の煮付けは日本が一番と思っていたが、とんでもない思い込みであった。イサキのような魚の塩焼き、蛸の煮付けなど。もちろん白ワインと。翌朝海岸では漁から帰ってきた船から魚を荷揚げしていて日本の漁村を思い起こさせてくれた。朝食後入り組んだ丘をキョロキョロ上っていたら窓から婦人が顔を出して声を掛け、小道の案内をしてくれた。人情が生きている。

使徒言行録
16:11〜15 フィリピにて 
わたしたちはトロアスから船出してサモトラケ島に直航し、翌日ネアポリス(現在のカヴァーラ)の港に着き、

▲カヴァーラに降る流れ星はパウロ宣教の印か
 
▲アギオス・ニコラス教会       ▲漁の後の一服
Cフィリピ
 ヨーロッパで始めての宣教は記念すべきことが多かった。先ずは紫の布を商うリディアが信者になり、パウロはヨーロッパで始めての洗礼を施した。彼女はパウロの宣教を助け自宅を開放し、彼女の家はいわゆる「家庭教会」になった。パウロはユダヤ人を改心させるより信仰の篤い異邦人の方が実りが多いことに気が付き、益々異邦人への宣教に熱が入ったのではないだろうか。
 次に有名なエピソードになった物語である。すなわちパウロは女占い師を排除したところ、彼女の占いで収入を得ていた主人から風紀紊乱の罪で訴えられ牢屋に入れられてしまった。ところが地震が発生したため囚人たちが全員逃亡した、と早合点して自殺しようとした看守をパウロは押しとどめ自分はローマの市民権があり何の罪も犯していないから逃亡する必要がないと説明した。これを契機として看守一家が信者になった。このエピソードが語っていることはパウロがローマの市民権を有していることが宣教に大いに役立ったことだ。手紙で知れることは初めは辱めにあったりで苦労したがフィリピの信仰の篤い人々のお陰で以後の宣教がしやすくなった。パウロは逆境の中でパウロを信じてくれた人々に感謝をし、いとおしんでいる。有名な詩篇(離散ユダヤ人が故郷を思って歌った)を参考までに記載したがガンギス川での初めての洗礼でパウロは何を思ったであろうか。


使徒言行録
16:11〜15 フィリピにて 
わたしたちはトロアスから船出してサモトラケ島に直航し、翌日ネアポリスの港に着き、そこから、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピに行った。そして、この町に数日間滞在した。安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。そして、わたしたちもそこに座って、集まっていた婦人たちに話をした。ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。そして、彼女も家族の者も洗礼を受けたが、そのとき、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってわたしたちを招待し、無理に承知させた。

使徒 16.16〜40 パウロたち投獄される
わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。彼女は、パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。そして、二人を高官たちに引き渡してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」群衆も一緒になって二人を責め立てたので、高官たちは二人の衣服をはぎ取り、「鞭で打て」と命じた。そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。 目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」 そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。朝になると、高官たちは下役たちを差し向けて、「あの者どもを釈放せよ」と言わせた。それで、看守はパウロにこの言葉を伝えた。「高官たちが、あなたがたを釈放するようにと、言ってよこしました。さあ、牢から出て、安心して行きなさい。」ところが、パウロは下役たちに言った。「高官たちは、ローマ帝国の市民権を持つわたしたちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ってから投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか。いや、それはいけない。高官たちが自分でここへ来て、わたしたちを連れ出すべきだ。」下役たちは、この言葉を高官たちに報告した。高官たちは、二人がローマ帝国の市民権を持つ者であると聞いて恐れ、出向いて来てわびを言い、二人を牢から連れ出し、町から出て行くように頼んだ。牢を出た二人は、リディアの家に行って兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出発した。

テサロニケの信徒への手紙 T 2:2
無駄ではなかったどころか、知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした。

フィリピの信徒への手紙 4.15〜16
フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。 また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。

詩篇 137:1〜9
バビロンの流れのほとりに座り/シオンを思って、わたしたちは泣いた。
竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。
わたしたちを捕囚にした民が/歌をうたえと言うから/わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして/「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。
どうして歌うことができようか/主のための歌を、異教の地で。
エルサレムよ/もしも、わたしがあなたを忘れるなら/わたしの右手はなえるがよい。
わたしの舌は上顎にはり付くがよい/もしも、あなたを思わぬときがあるなら/もしも、エルサレムを/わたしの最大の喜びとしないなら。
主よ、覚えていてください/エドムの子らを/エルサレムのあの日を/彼らがこう言ったのを/「裸にせよ、裸にせよ、この都の基まで。」
娘バビロンよ、破壊者よ/いかに幸いなことか/お前がわたしたちにした仕打ちを/お前に仕返す者
お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は。
  
▲ガンギス川でリディアの洗礼をする             ▲パウロが入っていた、と言われる牢
Dテッサロニ
 テッサロニケは一般的には日本人はあまり行かないが、ここはアレキサンダー大王を生んだマケドニア王国の中心地だ。テッサロニキにはローマ時代の遺跡やビザンチン時代のギリシャ正教の教会がいくつもあリ世界遺産の宝庫だ。
 さらにテッサロニキ西へ約40分行ったところにはマケドニアの首都ペラが、さらにその先には王家の墳墓群ヴェルギナがある。
そもそもマケドニア王国は紀元前700に興った小国であった。アレキサンダー大王の父親であるフィリポスU世はギリシャをも統一する大国にした。ギリシャ地図を見るとすぐお解かりのように南部は岩ばかりの土地のため小さなポリスが群雄割拠しているだけである。ここマケドニアは沃野が広がっており統一王国が出来る予感がある。そこへ持ってきて新たに支配下に置いたフィリピのバンゲウス山から金が産出するに及んで、ギリシャを統一しさらにペルシャをも制覇することになった。

 フィリピU世の跡を継いだアレキサンダー大王は11年による東方遠征をしギリシャの文化と東洋の文化を融合したヘレニズム時代の基礎を作った。彼の早すぎる死後約40年にわたる将軍たちの後継者争いの後、マケドニア(アンティゴノス朝)、エジプト(プトレマイオス朝)、シリア(セレウコス朝)に分裂した。マケドニアを制したカッサンドロスは前315年大王の異母妹テッサロニケを妻とし、この街をテッサロニケとした。


 テッサロニケではユダヤ人による反発が強く殺されそうになるが、ヤソンなどの熱心な信者に助けられベレア(現ヴェリア)に逃げた。パウロは手紙の中で自分たちを命がけで逃がしてくれた信者に感謝している。

使徒言行録 17:1〜10
パウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに着いた。ここにはユダヤ人の会堂があった。パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」と、また、「このメシアはわたしが伝えているイエスである」と説明し、論証した。それで、彼らのうちのある者は信じて、パウロとシラスに従った神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った。 しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人を民衆の前に引き出そうとして捜した。しかし、二人が見つからなかったので、ヤソンと数人の兄弟を町の当局者たちのところへ引き立てて行って、大声で言った。「世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。ヤソンは彼らをかくまっているのです。彼らは皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています。」これを聞いた群衆と町の当局者たちは動揺した。当局者たちは、ヤソンやほかの者たちから保証金を取ったうえで彼らを釈放した。兄弟たちは、直ちに夜のうちにパウロとシラスをベレアへ送り出した。二人はそこへ到着すると、ユダヤ人の会堂に入った。

1テサロニケ信徒への手紙 2:7〜8
わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、 わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。
 
▲ガレリウスの凱旋門               ▲ロトンダ(ガレリウスの霊廟)、400年頃から教会に
Eヴェリア
 この辺からパウロの考えていたルートから外れたのではないか。実際のパウロはアテネに行っているが本来はローマに行きたかったのではないか。そのためにエグナティア街道でデュルラキュウムへ行き。そこから船でアドリア海を渡りローマに行く。しかし州都テッサロニケでユダヤ人のものすごい抵抗に遭い、やむなくヴェリアへ逃走した。しかしここでも追っ手が来て殺されそうになり陸路でローマへ行くことが不可能であることを悟る。やむを得ず至近の港(ピゾナと言われている)で船に乗りアテネへ逃げたのではないかと思う。実際パウロは相当悔しかったらしく、下記のローマ信徒への手紙にも書いてある。しかし一般的にはパウロの宣教の旅についての本では、余り触れられていないが、このあたりについてはもっと考察があっての良いのではないかと思う。なぜならば、ローマには既に誰かが行って宣教しており、その後紆余曲折があってペテロがローマ宣教の父になってしまっているが、使徒言行録はパウロに同行したルカが書いているためペテロについての記録が少ない。例えばトロアスの使徒言行録にも在るとおり「ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった」誰かがすでに宣教してそのテルトリーが在ったと考えられる。しかしペテロがローマ宣教の祖は少し腑に落ちない。すなわち根っからの田舎育ちで、骨の髄までユダヤ教がしみこんでいるペテロがギリシャ語を話したりして、異邦人を宣教するのは大変無理があるのではないかと考える。

使徒言行録 17:10〜15
兄弟たちは、直ちに夜のうちにパウロとシラスをベレアへ送り出した。二人はそこへ到着すると、ユダヤ人の会堂に入った。ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。そこで、そのうちの多くの人が信じ、ギリシア人の上流婦人や男たちも少なからず信仰に入った。ところが、テサロニケのユダヤ人たちは、ベレアでもパウロによって神の言葉が宣べ伝えられていることを知ると、そこへも押しかけて来て、群衆を扇動し騒がせた。それで、兄弟たちは直ちにパウロを送り出して、海岸の地方へ行かせたが、シラスとテモテはベレアに残った。パウロに付き添った人々は、彼をアテネまで連れて行った。そしてできるだけ早く来るようにという、シラスとテモテに対するパウロの指示を受けて帰って行った。

ローマの信徒への手紙 15:19〜22
また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。「彼のことを告げられていなかった人々が見、/聞かなかった人々が悟るであろう」と書いてあるとおりです。
ローマ訪問の計画
こういうわけで、あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました。

▲モスクの付近にあるパウロ記念公園

Fアテネ
パウロは古代文明最高の哲学、芸術の都アテネに来た。パウロはエピクロス派、ストア派の哲学者とも討論した。アクロポリスを望むアゴラでは世界中の学問の徒が集まり、絢爛豪華な列柱、彫像が立っている。ユダヤの地から来たパウロは怖気ついただろうか、それとも偶像を拝む都会人を哀れんだであろうか。私はアゴラやアレオパゴスでまわりを観ながら思いに耽った。下記の演説のうち「神は天の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません」の部分は合理的なので相当な人の共感を得たであろうか。しかし「死者の復活」となると合理的な論理の世界に生きていたアテネの人々にはほとんど受け入れられなかったのではないだろうか。パウロは意気消沈してアテネを後にした。歴史にはifがないと言われるがパウロがもし当初の計画のようにローマで演説をしたならばどのような反応があったであろうか。ローマのほうが実用の世界であるから繁栄から落ちこぼれた人、政争に敗れた人、快楽や飽食に飽きた人、奴隷や虐げられた人など弱者の救済の思想はかなり多くの人に受け入れられたのではないか。

使徒言行録
アテネ 17:16
パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。それで、会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた。また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したが、その中には、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」と言う者もいれば、「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言う者もいた。パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせていたからである。そこで、彼らはパウロをアレオパゴスに連れて行き、こう言った。「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ。」すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである。 パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。 また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。 神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。皆さんのうちのある詩人たちも、/『我らは神の中に生き、動き、存在する』/『我らもその子孫である』と、/言っているとおりです。わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」 死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。それで、パウロはその場を立ち去った。 しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。

 
▲アレオパゴスでの演説                   ▲ストア派相手の論争

Gコリント
 アテネを追われるように去ったパウロたちは中継商業都市として活況を呈している神前町コリントではかなりの信者の獲得に成功している。ここでは一年六ヶ月滞在して渾身の力を振り絞って宣教した。パウロはテント造りを生業としていたため同業者のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラと知り合いになり彼らの信頼を得てしだいに地域の溶け込んでいった。ここで解る事は高邁なお説教と言えども他人の働きを当てにしてでのお説教では信者を得ることが出来なかったであろう。パウロのこの方法は後世にも影響を与えている。アウグスティヌスはカルタゴの放浪修道士がただ祈るだけの偽善的生活を改めるよう訓戒しているが、その中でパウロのことを引き合いに出して説得している。今野国雄「修道院ー祈り・禁欲・労働の源流」岩波新書
またパウロは爛熟したコリント風の生きかたにも警告を発している。
パウロが最も苦境に陥ったのは律法を信じるユダヤ人や異邦人ではなくキリスト教を信じるユダヤ人のようである。エルサレムにいる守旧派ともいえる人々を偽の使徒と呼びパウロの福音とは異なった内容を宣教しているようだ。このコリントのみならずガラテヤでも信徒の動揺が起きて心を痛めている。何しろイエスの直弟子の12使徒と比べて正当性を言われると弱いところがある。しかしパウロは人が救われるのは割礼などの律法によるのではなくイエス・キリストへの信仰によってであると説いたのである。このことがあって初めて異邦人でも救われるのだから。


使徒言行録
コリントで 18:1〜18
その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。 ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた。シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした。しかし、彼らが反抗し、口汚くののしったので、パウロは服の塵を振り払って言った。「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。」パウロはそこを去り、神をあがめるティティオ・ユストという人の家に移った。彼の家は会堂の隣にあった。会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」パウロは一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。ガリオンがアカイア州の地方総督であったときのことである。ユダヤ人たちが一団となってパウロを襲い、法廷に引き立てて行って、「この男は、律法に違反するようなしかたで神をあがめるようにと、人々を唆しております」と言った。パウロが話し始めようとしたとき、ガリオンはユダヤ人に向かって言った。「ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の訴えを受理するが、問題が教えとか名称とか諸君の律法に関するものならば、自分たちで解決するがよい。わたしは、そんなことの審判者になるつもりはない。」 そして、彼らを法廷から追い出した。 すると、群衆は会堂長のソステネを捕まえて、法廷の前で殴りつけた。しかし、ガリオンはそれに全く心を留めなかった。パウロは、なおしばらくの間ここに滞在したが、やがて兄弟たちに別れを告げて、船でシリア州へ旅立った。プリスキラとアキラも同行したパウロは誓願を立てていたので、ケンクレアイで髪を切った

コリントの信徒への手紙一 不道徳な人々との交際 5:1〜3  コリント風に生きる
現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。

コリントの信徒への手紙一 主の晩餐の制定 11:23〜26
わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

コリントの信徒への手紙 二 11:4〜6 偽使徒たち
 なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです。あの大使徒たちと比べて、わたしは少しも引けは取らないと思う。 たとえ、話し振りは素人でも、知識はそうではない。そして、わたしたちはあらゆる点あらゆる面で、このことをあなたがたに示してきました。


 
▲アゴラの演台で豪華な神殿や、アクロポリスを見ながら何を演説したであろうか

Hエフェソ
二回目の宣教の旅は通過するだけであったが、三回目の旅では約3年間留まりアジア地区の布教に邁進した。この町は世界七不思議に数えられる巨大なアルテミス神殿があり、そこでは豊穣、多産の神であるアルテミス神が祭られていた。パウロは偶像崇拝の愚を力説したに違いない。使徒言行録ではイエスが神殿から商人を追い出した内容とダブらせてかパウロが起こした騒動について記述している。筆者のルカの心憎い筆裁きだ。また最後に苦楽をともにした長老と悲壮な別れをしている。これはパウロがユダヤ人キリスト教徒からの迫害を言いたかったのではなかろうか。

使徒言行録 18:19 (第二回宣教の帰路)

一行がエフェソに到着したとき、パウロは二人をそこに残して自分だけ会堂に入り、ユダヤ人と論じ合った。人々はもうしばらく滞在するように願ったが、パウロはそれを断り、神の御心ならば、また戻って来ます」と言って別れを告げ、エフェソから船出した。カイサリアに到着して、教会に挨拶をするためにエルサレムへ上り、アンティオキアに下った。

使徒言行録 エフェソデの騒動 19:23〜32(第三回宣教の旅では約3年間とどまった)

そのころ、この道のことでただならぬ騒動が起こった。そのいきさつは次のとおりである。デメトリオという銀細工師が、アルテミスの神殿の模型を銀で造り、職人たちにかなり利益を得させていた。 彼は、この職人たちや同じような仕事をしている者たちを集めて言った。「諸君、御承知のように、この仕事のお陰で、我々はもうけているのだが、諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなどは神ではない』と言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるばかりでなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界があがめるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう。」これを聞いた人々はひどく腹を立て、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と叫びだした。そして、町中が混乱してしまった。彼らは、パウロの同行者であるマケドニア人ガイオとアリスタルコを捕らえ、一団となって野外劇場になだれ込んだ。

使徒言行録 エフェその長老たちに別れを告げる  20:17〜38(第三回宣教の帰路)
パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。 長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。……………そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。 …………
ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。………人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて接吻した。特に、自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、非常に悲しんだ。人々はパウロを船まで見送りに行った。

▲世界七不思議のアルテミス神殿               ▲豊穣、多産の神アルテミス

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