極楽浄土の庭平安時代)
末法思想
@時代背景

インド、中国で末法思想が生まれたが、わが国では
古代国家の崩壊過程進行に伴い社会・政治情勢の不が広まった。10紀末から11世紀にかけ、摂関政治の行き詰まりと天災や疫病に脅やかされていた貴族たちは、密教や陰陽道などの呪術にすがって現世利益を求めるだけでは足りず、浄土信仰によっても日々の不安から解放されようと願った。こうした時代の風潮と相まって末法思想が広まっていった。

A正法・像法・末法の期間について

時代 A説 B説 C説 D説
正法 教・行・証の三法が行われる 500年 500年 1000年 1000年
像法 教・行はあるが証果が得られない 500年 1000年 500年 1000年
末法 教えのみがあり行・証もなく末法になる 1万年 1万年 1万年 1万年

B日本での末法は

実際の釈迦の生涯について、一般的には紀元前565年〜486年または紀元前465年〜386年である。しかし平安時代中期より、釈迦の入滅時を前949年として、正法・像法各1,000年(D説)とし、その結果末法は1052年(永承7)に迎える、との説が広く流布された。その結果、この時期前後から末法から逃れるために浄土信仰が盛んになる。

C浄土信仰
末法意識に思想的根拠を与えたのが、源信の『往生要集』であった。院政期から鎌倉期にかけての武士・僧兵らの横暴,相つづく天災・戦乱・飢饉により、時代が経典に説かれる末法の様相と一致したことは、人々に末法の到来を現実のものと意識させた。末法到来の危機感は末法意識を基底にした仏教の展開を促すことにもなり、法然は称名念仏をすすめ、その弟子親鸞は絶対他力を強調した。日蓮は末法に得脱するのには『法華経』の題目を唱えること以外にないと説いた。これに対して道元は仏教に正・像・末を立てることを一つの方便にすぎないと、末法仏教を批判した。

D源信の往生要集にみる地獄
 
 日本人に極楽、地獄のイメージを定着させた本。八地獄の一つ衆合地獄について
 「往生要集」 花山勝友訳 徳間書店 55ページより
「………また、鬼は、この地獄に落ちた罪人をつかんで、刀のような鋭い葉をした木の林に入れます。木の上を見ると、すばらしく美しい女性がいます。そこで木をのぼってゆくと、葉が刀のようにその罪人の身体や筋肉を切り裂くのです。このように身体じゅうを傷つけながら、やっと木にのぼってみると、さっきの美しい女性は、地上にいるのです。相手もとろかすような目で罪人を見ながら、次のようにいいます。「貴方を思うからこそ、私は下におりてきたのですよ。どうして貴方は、私のそばに来て、私を抱いては下さらないのですか」
  罪人はそれを聞くと、再び猛然と欲望が起こってきて、下におり始めます。すると、木の葉が全部、まるでかみそりのように鋭くとがって上に向くのです。上ったときのように、身体中を傷つけながらやっと地面にたどりついてみると、美女は木の上にいるのです。罪人はそれを見て、再び木に登り始めます。
  このように、数限りない年月のあいだ、自分の欲心まどわされて、この地獄の中で、このように苦しみを受けるのは、正しくない性欲が原因なのです。地獄の鬼は罪人を叱って次のように詩を述べます。
  「他人のなした悪い行為で、自分が苦しい報いを受けてるわけではない。自分でなした行為によって、その報いの結果を受けているだけだ。人間というものは、みんなこんなようになっているのだぞ」………

  まあなんとリアルに描写したことか、ため息が出る。私は多少なりとも心当たりがある。源信も若い頃には心当たりがあったのだろうか。

E極楽へ行くための手っ取り早い方法は、この世に極楽を再現する

  極楽へ行くためには「観無量寿経」では定善十三の観法がある。極楽世界の細部から思い浮かべ、目の前にありありと見えるまで修行せよ。そうすれば最終的には極楽の蓮華の中にいる自分が見えてくる。そのためには寝ても覚めても極楽が見えるように訓練する必要がある。想像力で現実を作ってしまうのだ。
  しかしこれでは非常に手間が掛かる、何か安直な方法がないのか。あるある、地上に極楽を作ってそれを見続ければ、極楽世界が目の当たりに浮かんでくる、という。道長は62歳で糖尿病で死んだそうだが、美食の果てに目が見えず、好きなものも食べれず最後を迎えた。

F須弥山の原型はカイラス山から


▲須弥山の原型カイラス山     ▲法隆寺五重塔内東面の須弥山  ▲飛鳥にある須弥山石
 斉藤忠一「日本の庭」東京堂出版  奈良の寺4法隆寺岩波書店
日本庭園には須弥山がしばしば登場する。その根源はヒンドゥー教、ジャイナ教、ボン教、仏教との最高の聖地であるカイラス山だ。

G極楽浄土の世界を経典では
「阿含経(あごんきょう)」には次のように書いてあるそうだ 斉藤忠一「図解 日本の庭」東京堂出版

 
この宇宙は虚空の中に風輪が浮かんでいる。風輪の上には水輪が乗り、その上に金輪がある。金輪の中心に八万四千由旬の高さで聳え立っているのが須弥山で、同じく海中で八万四千由旬の高さ(深さ)を持っている。
 須弥山のまわりは香水海がめぐり、そのまわりを金山がめぐっている。海・山・海・山と交互に八山八海がめぐり、最後の海を鹹海(かんかい・塩辛い海)と称し、外周の山を鉄囲山(てっちせん)と称している。鹹海のなかに東西南北に四つの島があり、その南の島の閻浮堤(えんぶだい)が人間の住んでいる処である。これら全てを総称して九山八海(くせんはっかい)という。

平等院鳳凰堂
  最近の発掘で鳳凰堂の前は玉石による州浜上になっていたことが分かった。また翼廊荷は基壇がなく直接に州浜に建っていたそうである。鳳凰堂正面には小御所があり、そこから藤原頼道が正面の阿弥陀如来を拝み、極楽へ成仏することを願った。

▲極楽浄土の再現
  近年の発掘により鳳凰堂は中島であり平橋、反橋をわたって行く事が分かってきた。鳳凰堂の建つ極楽浄土の彼岸も池泉周囲の此岸にも写真のような玉石が敷き詰められている。

毛越寺の出島と須弥山と思われる岩島

▲毛越寺の汀(平安末期) 
  藤原三代が東北の地に築いた極楽浄土であるが、やはり作庭記の中で島姿の様々をいふ事の条で「干潟様は汐の干あがりたる跡の如く半ば現れ、半ば水に浸るが如くにして、自ら砂々見ゆべきなり。樹はあるべからず。」とあり海岸の風景として、干潮時に島が海上に現れた様を再現している。日本は島国である。この様な手法は全国の庭園で繰り返し表現されている。この広大な池泉舟遊式庭園は、東北地方にあったため壊されることなくほぼ原形をとどめている。倒れている鋭い巨石が屹立しているさまを想像するとぞくぞくしてくる。

称名寺  極楽浄土への反橋と平橋(現在は無い)

称名寺  須弥山を表すこの石は上記毛越寺と瓜二つ

天龍寺の州浜様式は平安時代の痕跡か
 この寺は足利尊氏が1339年に夢想国師に作らせた禅様式の龍門瀑がテーマの庭である。しかし以前からあった、天皇の御所の痕跡が庭園手前の州浜ではないだろうか。

西芳寺(苔寺)

  作庭のバイブルと言われる「作庭記」では島姿の様々をいふ事の条で「霞形は池の面を見渡せば浅緑の空に霞の立渡れるが如く、二重三重にも入違えて細々とここかしこ、たぎれ渡り見ゆべきなり。これも、石もなく植木もなき白州なるべし」、つまり大和絵の霞がたなびいているさまを表すため、島々に白州を敷いて表現しようとしている、よって、苔はあってはならないのである。なお、当庭園は以後の総ての庭園に影響を与えており、
庭園の原点と言われている。例えば写真右下の三尊岩組は以後のそれのモデルになり金閣寺、銀閣寺、醍醐三宝院、二条城などに影響を与えた。

  一方この寺には枯滝石組がある。斎藤先生の「図解日本の庭」によると日本庭園史上、最も雄渾で力強く空前絶後の滝と記されている。この庭を作った夢窓国師は「釈迦は修行すべき場所として『山林の樹下や巌穴の中などの草庵や露地に座すべき』としている」のように、山林に座禅を組み上中下と三段階の修行を行うことにより、自分の心の分別と進み具合を見定めてゆくべき、と考えていた。即ちこの滝は三段よりなる龍門瀑の故事と関連させて修行の場所として作ったものである。

旧大乗院

法金剛院の石浜と池泉
  創建は1130年で、鳥羽上皇の中宮待賢門院璋子とその娘上西門院とで池の東西に阿弥陀堂、池の南には九体阿弥陀堂、他に三重塔、宸殿を建て、さながら極楽浄土を再現した。なお、九体阿弥陀堂は平安時代には盛んに作られ約30堂あったそうだ。しかし現存するのは京都府と奈良県の県境にある浄瑠璃寺だけである。作庭は仁和寺系の林賢と静意の石立僧による。
  ここの池は東西約140m、南北約150mの大池泉であった。現在はかつての堂塔を偲ぶしかないが池泉、州浜の曲線、荒磯、それに巨大な滝によって大いに平安貴族が信じた極楽浄土の庭を想像できる。

浄瑠璃寺と九体阿弥陀堂
  くり石で出来た大島の荒磯(中央)と出島(手前)の景(寺院のパンフレットより)
九体如来像が残っている唯一の寺院(平安時代には約30寺院があった)。お堂と阿弥陀像は国宝

円成寺の現世から極楽浄土への道 
 カメラの位置の現世から中島へは反橋で渡り、そこからは阿弥陀堂に向かって平橋を渡る。
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