禅の庭(鎌倉時代) |
臨済宗の禅の悟りとは 自分が清浄身であることを自覚する、ことである。そのためには方便として周りを塵一つない環境にする、ことである。これを称して禅観境を無染にする、と言う。そのためには一に掃除二に掃除である。 この精神から発している禅寺の庭園は塵一つなく、水が打ってあり、凛として厳粛である。しかし、心安らぐのである。 蘭渓道隆が始めて龍門瀑を作る 龍門の滝を最初にもたらしたのは蘭渓道隆(1213〜78年)である。彼は1246年に34歳のとき宋から博多に到着。途中大分県の九重町で滝に出会い「龍門の滝」と命名した。その後上洛御、執権北条時頼に招かれ鎌倉に着いたのが1247年であった。翌年より建長寺の創建に参画し、開山第一祖として入寺した。蘭渓40歳であった。その後時頼の崇敬ますます篤く、後嵯峨天皇のの勅を受けて上洛し御前で禅の要諦を説いた。しかし彼の盛名を嫉妬してか、他宗派からの誹謗や圧力が激しくなり、ついには元寇のスパイ説まで飛び出した。彼は鎌倉を出て甲斐、信濃に二回にわたって都合11年間逃避行した。この間彼が東光寺を初めとして龍門瀑の庭園を作った。この時点から日本の庭園が従来の神仙蓬莱式庭園や極楽浄土式の庭園から禅の思想に基づいた庭園が始まった。 夢窓国師の略歴 夢窓国師は蘭渓道隆より一世代後の1274年に生まれた。彼は中国に渡って悟りを得たわけでもなく、中国から来た高僧から印可を受けたわけではない。彼は建仁寺や建長寺などの僧堂で参禅修行した。しかし彼はそれ以上に僧堂を出て、旅を続け自然の山野に独坐して修行を続け悟りを開いた。夢想国師の悟りが大自然の中で行われたことは、彼の庭園が自然をテーマとしながら精神性を秘めていることと深く関係している、と思われる。 龍門瀑とは 天龍寺や金閣寺などにある。ともに中国の故事にある「登龍門」の由来である鯉が、三段の滝を登って将に龍に化す様を現している。中国南宋よりの帰化僧の蘭渓道隆禅師が中国の故事にある登竜門(鯉が死を賭してまで竜になるべく努力するさま)にならって、修行僧が観音の知恵を得る(悟る)まで、努力をしなければならないことを日本庭園の形で教えている。このテーマを夢窓国師が引き継いで新しい庭園のスタイルを確立した。このようなわけで鎌倉、室町時代は庭園のメインテーマは滝だ。 資料 禅宗による枯山水の庭誕生の歴史的背景はここをクリック禅の庭誕生の背景 |
▲東光寺の龍門瀑 山畔を利用しておびただしい数の石を連続してくみ上げている。中央にある枯滝には今にも飛び上がろうとしている鯉魚石がある。龍門瀑の第一号。 |
▲建長寺(蘭渓道隆) |
▲円覚寺(無学祖元) |
▲泊船庵(夢窓国師) |
▲ 退耕庵(夢窓国師)の金毛窟 洞窟の入り口は風化が激しいためコンクリートによる強化が施されている 天井の高さは約190cm。この祠からナが寝ると穏やかな農村の風景が眺められ、自然の風景に包まれた、坐禅の場として最適である。 |
▲虎渓山永保寺(夢窓国師) |
▲瑞泉寺(夢窓国師) |
▲南禅寺(南禅院)の坐禅石を発見 |
▲天龍寺(夢窓国師) 夢窓国師が西芳寺を作り始めた頃、突然に後醍醐天皇が吉野で崩御され、天竜寺を創建することになった。夢窓国師は両方の寺で龍門瀑のテーマで庭を作ることになった。しかし天竜寺の鯉は修行の鯉ではなく、後醍醐天皇は既に示寂して、悟りに入っていなければならない。そのため鯉は既に龍門瀑を昇りきって龍と化している。 |
▲西芳寺(苔寺) この枯滝石組は斎藤先生の「図解日本の庭」によると日本庭園史上、最も雄渾で力強く空前絶後の滝と記されている。この庭を作った夢窓国師は「釈迦は修行すべき場所として『山林の樹下や巌穴の中などの草庵や露地に座すべき』としている」のように、山林に座禅を組み上中下と三段階の修行を行うことにより、自分の心の分別と進み具合を見定めてゆくべき、と考えていた。即ちこの滝は三段よりなる龍門瀑の故事と関連させて修行の場所として作ったものである。 |
▲恵林寺(伝夢窓国師) 1330年夢窓国師が創建した。天正10年(1582年)織田信長の兵火によって全焼。 |
▲光前寺の龍門瀑 この寺は背後に山を背負っているために、立体的な滝が作りやすい。また豊富な水が得られやすため、自然な状態でこのように美しく水が流れている滝である。 |
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