枯山水の庭(室町・安土桃山・江戸時代)
庭園の施主と目的
  飛鳥、奈良時代の神仙蓬莱思想の庭は飛鳥京や平城京の中心にあり、国家の行事を執り行う場所としてであった。次の時代の平安時代になると、天皇や藤原一門の人間が極楽往生するために、地上に極楽を再現するものであった。更に鎌倉、室町時代でも将軍などの権力者の庭である。以上何れも最高の権力者が財力と権力に物を言わせて作ったものだ。一方禅宗が入ってきてからは、作庭の目的が権力者の不老不死や極楽往生のためのみではなく、禅の悟りの方法を教えるために庭を作るようになってきた。しかし天竜寺、西芳寺、金閣寺など財力と権力を背景にしなければ、悟りの庭も到底作庭出来るものではない。このような池泉舟遊式・池泉回遊式の庭は広大な敷地が必要だ。

枯山水式庭園は寸土に世界を観る

  枯山水の庭は禅寺の方丈庭園で発展した。禅の修業は、深山幽谷の大自然の中で行うことを理想とする。戦乱の続く世の中で人々は何のために生きるのかを模索するようになる。鎌倉仏教の勃興だ。そのためには一人で山に籠って修行するよりも、指導者の下で集団で修行する場が必要になった。おりしも曹洞宗、臨済宗などの精神性を求める教団が形成され始めた。そこでは、作った庭園を大自然の景色とみなし修行の場とした。狭い土地に小さな石や白砂でも、大自然の深山幽谷の景色とみなし、悟りへの道を暗示した。日本庭園が精神性を秘めたるゆえんだ。


資料

禅宗による枯山水の庭誕生の歴史的背景はここをクリック禅の庭誕生の背景

龍安寺
  早朝の龍安寺境内は掃き清められていて、禅寺特有の張りつめた清浄感が感ぜられる。例の石庭はあまりにも有名であるが、その誕生に関しては諸説ある。その一つとして七、五、三は分解することが出来ない数字でめでたい数とされ、またこれにより森羅万象が生ずると信じていた。例えば魔方陣のように縦、横、斜とどの方向に三つの数を加えても和は十五になることから、数字に宇宙の神秘を見出していた。即ち陰陽五行説である。この龍安寺の庭は真珠庵のような完全な七五三からなっているのではなく、五、二、三、二、三からなっていて、またどこから見ても十四石しか見えないことから、益々なぞを深めている。
  寺の方丈に面した最も重要なところに、岩をポンポンと置いただけの庭は一体どのような人物が創らせたのであろうか。寺は細川勝元が徳大寺公有から譲り受けた。その後勝元の子の政元が母の三回忌のために方丈を建てた。このときに庭も創られたと言われている。彼は父の17回忌の時に、喪主でありながら烏帽子も冠らずに、粗末な狩衣ですませたそうだ。型にこだわらない人物のようだ。織田信長を髣髴させる。
  さて、この庭は1797年に焼失しており、焼けた痕跡の残る壁の内側のレベルが外側より50cmほど高いことから「新たに整地し直した所に以前の石を掘り起こして作り直した」などの説がある。いずれにしてもこの空間は「庭園とは石の空間芸術」であるということをよく表している。
  尚、この庭園を観賞するときに、壁の向こうに見える山や木立などを借景と称して、合わせて理解しようとする様子が度々見受けるが、いかがなものであろうか。この壁により外界は見えても見え無い事とになっているのであり、庭園とは壁の内側にある石の配置こそが生命なのである。芸術は自然そのものを観賞するためではない、と思うから

大徳寺(大仙院)
 典型的な禅寺の枯山水だ。1509年古岳宗亘(こがくそうこう)禅師が作ったといわれる。師は禅の悟りを分かりやすくするために、狭い場所に禅の庭を作った。しかしその後阿波の緑石などが寄贈され豪華に石が組まれている。
竜門瀑、石橋、鶴亀蓬莱、舟石などあらゆる要素を含んだ盛り沢山の庭となっている。なお、書院は日本最古級。

大徳寺
(本坊) 枯滝石組   不動尊(左)と観音石(右)が並び、その右が枯滝である。
この意味は斎藤先生「図解 日本の庭146頁 東京堂出版」によると
「滝は悟りに至る修行を表す。鯉魚は龍と化し、修行僧は観音の知恵を得る。不動明王は大日如来はの化身として、どのような滝にも内在し、滝に向かうものがあれば何者でも助ける。滝を跳躍飛せんとする者には力を与え、岩に額を打ち付けて瀕死の者を救い上げて助ける」 静かで堂々とした庭

大徳寺
(龍源院)中央部  中央が上昇する龍の頭、その手前の円盤状石は龍の玉、右手前は爪

大徳寺
(興臨院)  虚空に架かった橋が見所

酬恩庵
滋楊塔前の須弥山石(カイラス山に似ている)、その後ろに見えるのが礼拝石

酬恩庵の龍門瀑
▲正面の大きな石は観音石、左下には不動石、中央の天平石は大座石、その右側の垂直の黒い石は鯉が飛翔した瞬間を表している。また中央に観音石と不動石を立てた庭は大徳寺の本坊、大仙院にある。

妙心寺(退蔵院)
  枯池に亀島と鶴出島、枯滝、蓬莱山、石橋と、狭いところに全部入っている。ただし気になることは亀島に石橋が二本架かっている事だ。この手法は秀吉の時代から、といわれているからだ。作庭時期は1558年開山200年忌に作られた、と言われている。となると亀島に架橋されるようになる魁なのか。禅寺であるから神仙蓬莱思想に関するこだわりが無かったためであろうか。

金地院全景

金地院
亀島
  金地院崇伝は家康を初め三代に渡って徳川幕府に務めた名僧。彼は小堀遠州に設計させ、賢庭が施工した。鶴亀島、蓬莱山と型どおりであるが手前に白砂により大海をあらわし、背後には大刈り込みを配して深山幽谷の趣を醸しだしている。鶴島、亀島の石は申し分のなく、この石を正面からがっしりと配置ししている。またこの庭の本当の意味は礼拝石にある。この異常に大きな石は本来は橋は石橋用として寄進されたものであるが、ここではどこの庭にも無い礼拝石として使用した。本来の目的は大刈り込みの後ろに鎮座している東照宮の荘厳のためではないか。

▲西本願寺
  当庭園は聚楽第から運んできた石によって作られている。ただし庭の構成は当初のままなのか、新しく構成にしたのかは不明だそうだ。多分元ままの形に再現した、と言われている。ただし、私の印象では狭いところにギシギシ石だけが詰まっていて、作り物の箱庭のような感じを受ける。秀吉が作らせた安土桃山時代の庭ならばもっと暴れまわっていてもよいのでは。コピーとはこうなってしまうものか。

▲聚楽第にあった飛雲閣(西本願寺)  
  秀吉が金閣、銀閣に倣って作った。絢爛豪華な庭に瀟洒な館が想像される

曼殊院
  手前に亀島、右奥が鶴島、左奥に枯山水が流れ出している。これが滔々とした大河になり、大海になっている。書院から見ると縁先の板欄干は舷(ふなべり)に見え、あたかも舟を繰り出して仙人の住む蓬莱山に向かっているような感じになる。大和絵風庭での平安王朝の古きよき時代を偲いだのだろうか。
  枯山水の庭であるが大和絵風に仕上げた庭。

本法寺  斬新な枯滝の意匠
  仁王のように立つ二本の立石の間に、水落石は後ろに倒されている。この立石は禅寺では不動石、観音石を意味するが、ここは日蓮宗なので宗祖日蓮聖人と開祖日親上人を表しているのではないか。手前の縦じま模様の青石は渓流の流れ落ちる様をあらわしていて、相当の名石である。

青岸寺  枯山水 
 庭は鋭い形の石で覆いつくされている。見るものに緊張を強いるが、池の水は白砂ではなく苔によって表されているために、多少寛ぐことが出来る

普門寺
  注意を引くのは中央にある橋は橋石が地面についていることである。ただし作庭当時の状態であるかは不明ではなかろうか。とにかく無住の荒廃した時期が長かった寺であるから、最近になって復元したものである。出島、島には土があったほうが自然ではなかろうか。

慈光院
  部屋から外を眺めると大和平野と大和青垣が望める。この構成は京都の円通寺と似ている
   総合TOP  ヨーロッパ紀行TOP 日本庭園TOP